啓発 > 名護親方の六諭衍義(りくゆえんぎ)
 〇名護親方(程順則)の六諭衍義(りくゆえんぎ) 程順則 (1663〜1734)
孝順父母・・・・・いたわりあう親子関係を築く 
尊敬長上・・・・・目上の人を尊敬し礼儀正しくする
和睦郷里・・・・・ふるさとの自然や人を愛し仲良く助け会う
教訓子孫・・・・・教育を大切にする
各安生理・・・・・自分のやるべきことを成し遂げる
母作非爲・・・・・善いおこないをする



程順則(ていじゅんそく)は、危険な船旅をおして中国に何度もわたって勉強した人で、
日本の学者たちとも交流を深めた。道徳者であり、学者であり、詩人でもあった。
程順則は1663年、久米村(くめむら)の豊かな家に生まれた。
教育熱心な父とやさしい母のもと、本を読むのが好きな素直な子供に育った。
ある日のこと、順則が外で遊んでいると、どこからか一羽のニワトリをつかまえてきた友達に、
「このニワトリを食べよう」といわれた。「そのニワトリは君のものではないだろう」と順則はとめたが、
友達がいうことをきかなかったため、しかたなく「わかった。それならば私の家で料理しよう」と
友達を家につれて行き、ニワトリをごちそうした。
その数日後、食べたはずのニワトリが生きているのを見た友達は、
実は順則の家のニワトリを食べていたことに気づいた。
そして、自分のニワトリを殺してまで友達の間違いを正そうとした順則にたいして、
はずかしくなってしまったという。
こうして程順則は、子供の頃からみんなに正しい行いを教えていたのだ。
順則が12才の時、父が中国で病死してしまった。
その知らせを受けた母は、悲しさのあまり夫のあとをおって死のうとするが、
「自分が死んだら子供たちはだれが育てるのか。私が子供たちをりっぱに育てよう」と決心し、
子供たちに父の残した本をあたえた。順則も母の期待にこたえるように勉学にはげんだ。
14才になった順則は、久米村にある塾へ通いはじめた。
このころ学校はなく、勉強するためには自分で本を読むか、塾に通うしかなかった。
そして、20才の時、順則は中国に留学した。
中国では、陳元輔(ちんげんぽ)先生からいろんな学問を学んだ。
寝る間をおしんで勉強する順則のようすをみて、
「程順則は学問にすぐれているだけでなく、心も広く考えが深いりっぱな人である。
教えたことはすべて理解し、
学問をするにあたいする人とは、まさに程順則のことだ」と陳元輔はほめたたえた。
琉球に戻ると久米村の学校の先生になり、教育者としての道を歩き出した程順則だったが、
人に教えるにはまだ学問が足りないと考え、再び中国をおとずれた。
4回めに中国をおとずれた程順則は、『指南広義(しなんこうぎ)』と
『六諭衍義(りくゆえんぎ)』という本を持ち帰った。
『指南広義』は、危険なこう海が少しでも安全になればと考えた程順則が、
天候や天文などについてまとめたものである。
『六諭衍義』は中国に昔からある道徳の本。やさしい言葉で書かれていて、
中国語を学ぶためにもいいと考えた順則は、自分のお金をはたいて印刷して持ち帰った。
その後、この『六諭衍義』は将軍吉宗の手にわたり、寺子屋の教科書として日本国中に広まった。
程順則は51才の時にはじめて江戸に上り、日本の有名な学者と交流した。
琉球に戻ると、つねづね考えていた学校を作るように王様にお願いした。
「教育よりまず政治(せいじ)だ」と反対する人たちもいたが、順則は「教育を高めてこそ、
いい政治がおこなえる」とねばり強く説得した。
こうして1718年、琉球ではじめての学校「明倫堂(めいりんどう)」が久米村にできた。
その後、王府のえらい役人として名護間切(なごまぎり)の領主になった順則は、
多くの人におしまれながら71才でこの世を去った。